ここ音戸の瀬戸は、現在でも船が行き交う重要な海路ですが、言い伝えによると、平清盛が日宋貿易の船を通すために切り開いたのだそうです。
実は、清盛は沈む夕日を戻してまで、この音戸の瀬戸を、たったの一日で切り開くことにこだわっったんですね。その理由というのが、求婚した宮島の姫に「私のアッと驚くようなことをやってみせて」と言われたことで、音戸の瀬戸を一日で切り開くと約束したのだそうです。
その、扇ぎ戻した場所というのが、この音戸の瀬戸公園、地元では高烏台と呼ばれる場所で、ここには、清盛が夕日を扇ぎ戻したといわれる場所が残ってるんですね。
公園にそびえ立つ清盛像のところから、少しだけ山を下って行くとその「日招き岩」と言われる、足跡と杖の跡だと言われるくぼみがある岩があります。ここからだと、音戸の瀬戸の工事の様子と、その西にそびえる山々に沈む夕日がよく見える場所ですね。沈む夕日を思わず止めたくなります。
さて、この高烏台には、こういった平安時代の平清盛の歴史だけでなく、戦争の遺跡も残っています。
音戸の瀬戸は戦闘機からも目印になる場所で、広島や呉の上空に飛んで行くためにはこの近くを通るようになるんですね。この場所には「高烏砲台」と言われる砲台が設置されていて、敵機来襲の見張りや迎撃のための軍隊が常駐していました。石造りの兵舎や防空壕、防弾壁などが形だけ残っています。南側からは施設やここに隠れている兵隊などが見えないような造りになっています。
音戸の瀬戸公園・高烏台
場所 呉市警固屋町
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